<尊敬する喜多郎さんの音楽~壮大なシンセサイザーの音世界>

②初の喜多郎さんコンサートへ(1994年夏)

喜多郎さんのアルバムを集め始め、親しむようになっていた高校1年の時の冬、19941月に、第51回ゴールデングローブ賞が発表されました。

 

アカデミー賞とともに、ハリウッドを代表する映画賞であるゴールデングローブ賞。

この年のゴールデングローブ賞の作曲賞を受賞したのが、喜多郎さんでした。オリバー・ストーン監督の映画『天と地』の音楽で、見事受賞されました。

 

まさに、名実ともに“世界の喜多郎”となり、新聞でも、喜多郎さんの受賞のニュースが、記事として取り上げられていました。

 

「喜多郎さん、ほんとにスゴイ!」とても嬉しいニュースでした。

 

この頃は毎日のように、アルバム『古事記』を聴いており、喜多郎さんの壮大なシンセサイザー・サウンドに、ますます魅せられていきました。

 

そんな1994年、高校2年になった僕は、音楽家を志し、真剣に音楽の勉強に励むようになっていました。

宗次郎さん、喜多郎さんをはじめ、久石譲さんや姫神・星吉昭さんなど、多くのアーティストの作品にふれ、また、ニューエイジ・ミュージックについて研究していきました。

 

そして、その年の夏、前年の新聞記事でも触れられていた、喜多郎さんのニュー・アルバムの発売とコンサート・ツアーが行われることが、新聞で取り上げられました。

 

喜多郎さんの新作は『マンダラ』。

コンサート・ツアーは、全世界で開催されるワールド・ツアーです。日本では、世界遺産に登録されたばかり(当時)の、姫路城で野外コンサートが開催されることが、大々的に報道されていました。

 

姫路城でのコンサートは、とても気をそそられましたが、日程的に厳しく、同じワールド・ツアーの大阪公演(フェスティバル・ホール)の方に行くことにしました。

 

姫路城コンサートのあった、平成6729日の翌日の新聞朝刊には、写真入りで、喜多郎さんが姫路城でコンサートを行ったことを伝える記事が載っており、それを見た僕は期待が高まりました。

 

また、大阪公演の数日前には、FM大阪の番組に喜多郎さんが出演され、新作とコンサートの紹介をされているのを聴きました。

そんなこともあり、とても大きな期待を胸に、コンサート当日を迎えフェスティバル・ホールへ向かいました。

 

座席は1階席。ちょうど前より中央辺りの、とても良い席でした。

ステージ中央の喜多郎さんが、よく見えそうな位置でした。ステージには幕が下りていました。

 

 

開演時間となり、幕が開きました。

 

雷鳴のサウンドエフェクトが轟く中、喜多郎さんがバンドメンバーを指揮している後ろ姿が見えました。

重低音のストリングスが鳴り響きます。1曲目は、アルバム『古事記』から「太始(はじまり)」でした。

 

…が、次の瞬間、とてつもないほどの衝撃と振動が、スピーカーから襲いかかって来ました。

バス・ドラムの音でしたが、座席が大きく揺れ、地響きがするほどの大音量で、鳴るたびに胸の肋骨が強振して、痛みを感じるほどの大音響でした。

 

ハードロックのコンサートやヘビメタのコンサートでしたら、そういう骨に響くような大音響でのコンサートは、普通にあることかと思いますが、まさかの喜多郎さんのコンサートで、そういう大音響でしたので、まったくの予想外でした。(当時の自分自身は、静かな音楽を好む、思いっきりニューエイジ音楽志向な人間でしたので、激しく痛みを感じるほどの大音響に対し、正直なところ“うわぁ~…マジか…”という心境でした)

 

『古事記』の「太始」につづいて「創造」。その後、「シルクロード」「キャラバン・サライ」と代表曲が続きました。

 

ドラムス(特にバス・ドラム)の音が入らない曲の間は、地響きのような大音響からは逃れられましたが、再びドラムが入る曲になると、バス・ドラムのサウンドが胸の骨を強振して、痛むほどの大音響が襲ってきます。

 

『古事記』から「大蛇(おろち)」…そして、コンサート後半は新作『マンダラ』です。

 

実はこの『マンダラ』という作品。喜多郎さんのアルバムの中でも、最もド派手な部類の作品で、喜多郎さんご自身が弾くエレキ・ギター(ディストーション・ギター)、ドラムやリズム・パーカッション、ダイナミックなシンセ+オーケストラサウンドなどの、とにかく“アツイ”タイプの作品です。

 

この『マンダラ』の時の喜多郎さんは、シルクロード系の曲の静かな音楽の路線ではなく、かつてのプログレッシブ・ロックをやっていたバンド時代の、若い頃を彷彿させる作風なのでした。

 

よりによって、胸の骨を強振する、地響きがするほどのバス・ドラムの大音響の時に、ド派手でアツイ、ロック・テイストな『マンダラ』の曲…。すさまじい状況のコンサート後半は、想像におまかせします…。

 

このマンダラ・コンサートでは、バンド・メンバーも人数が多めで、喜多郎さんの他、シンセ担当が3名、ギター1名、ベース1名、民族楽器奏者1名、ヴァイオリニスト1名、パーカッション1名、そしてドラムス1名という編成でした。

(喜多郎さんのYouTube公式チャンネルに、このマンダラ・コンサートのアメリカ公演の映像がありますので、参考までにご覧下さい)

 

コンサートは、途中MCは一切なく、ぶっ通しで演奏が繰り広げられました。

 

アンコールでようやく、喜多郎さんがあいさつし、メンバーを紹介されました。

…が、ドラムスを紹介したところ、拍手はまばら…。

喜多郎さん、一瞬「あれ…?」という表情をされました。

 

また、最後の挨拶で、「また、このメンバーで演奏に来たいと思います。」と挨拶されましたが、客席からは反応は薄く、やはり、喜多郎さんのコンサートに来ている層は、どちらかと言うと静かなタイプの曲を求めていた様子でした。

 

かつて、アルバム『敦煌』に感動し、美しい静かな天上の音楽を期待していた自分にとって、この日の喜多郎さんのコンサートは、正反対なタイプのものでした。

 

後になって知ったのですが、喜多郎さんはコンサートにおいて、特にバンドのスタイルでコンサートをする際は、割とロック・テイストで派手めの曲や曲調を披露するケースが多いようです。

 

また、CDでは静かだった曲でも、コンサート向けに、より派手でダイナミックなアレンジに変えることもあるようです…。ともあれ、自身初の喜多郎さんのコンサートは、散々な目にあってしまいました。(その後、喜多郎さんのコンサートをホールで聴くのは、20年後となってしまいます)

 

このコンサート以後、喜多郎さんのコンサートに何度か行きましたが、地響きするほどの大音響だったのは、唯一、このマンダラ・コンサートの大阪公演のみでした。そういう意味では、この時のコンサートは、喜多郎さんの演奏会としては異色だったと言えます。

 

演奏曲目も、ロック・テイストなアルバム『マンダラ』の曲だったこともありますが、初の喜多郎さんコンサートとしては、タイミングが悪かったかな…と思います。

(同様のことが、同じ1994年の久石譲さんのコンサートでも起こりますが…詳しくはこちらの記事参照→https://drive.google.com/file/d/1MgECowqaMGGYP14gRQ3af2z8UeTNbaHO/view

 

マンダラ・コンサート以降、しばらくは喜多郎さんのコンサートには行かず、CDで喜多郎さんの作品を聴いたりして、音楽の勉強をしました。

 

コンサートでの第1印象は、前述のようなものとなってしまいましたが、やはり喜多郎さんの音楽は素晴らしく、学ぶことは多々ありました。

 

高校卒業後、音楽を専門に学ぶ大学に進んでからも、僕は変わらず喜多郎さんの作品を、CDなどで聴き続けました。

僕が大学に進学したのが、マンダラ・コンサートから2年後、1996年のことでした。

 

 

 

③学生時代(シンセのことや、アルバム『Peace on earth』について)>につづく

 

 

※今回のコラムで紹介した作品が、喜多郎さんのYouTube公式チャンネルで公開されていますので、紹介します。